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第2部、語り継ぎたい物語、1。100年を貫く社訓の精神。

第6章、社訓を受け継ぐ物語。

ヤマト グループの100年の歴史の中で変わるべからざるもの、それは、創業、まもないころからの社訓の精神である。おぐら やすおみが制定し、おぐら まさおが受け継ぎ、そして企業理念として整備され、こんにちでも、ぶれることなく受け継がれている社訓の3箇条にこめられた思いが、さまざまな物語を紡ぐ。

48歳のおぐら やすおみと、中学生時代のおぐら まさお。1938年。

1、社訓から企業理念へ。

おぐら やすおみがこめた思い。

社訓は、創業者のおぐら やすおみが1931年、昭和6年12月に制定したものだ。康臣は会社経営について、ある確信を得ていた。それは、経営者がどれだけ合理的な経営をおこなったとしても、その会社は形式的な組織にすぎないというものだ。会社が社会から認められるには、そこで働く、ひとりひとりの心がけが最も重要と考えたのだ。

ヤマトは我なり、という短い言葉には、誰もがヤマトの代表であるという意味がこめられている。運送行為は委託者の意思の延長と知るべし、の背景にあるのは、貨物運送事業に携わる者は、公共機関を担う責任があり、お客さま、委託者の心を受け継ぎ、責任と誠意をもって、迅速かつ正確にお届けするという認識。思想を堅実に礼節を重んずべし、は、自己を律し、コンプライアンス、法令遵守を重視することを端的に示している。

この社訓は、訓示として社内に伝えられた。運送事業に携わる者は、日々、それぞれの持ち場で働いているため、上意下達に時間がかかる。それを補って余りあるのが、社訓を大事にする、ひとりひとりの自主性だと康臣は考えていた。この思想は、1922年、大正11年ごろから使われている、桜に Y の社章にもこめられている。花びら一枚一枚は社員。集まって花となり、さらに集まって木となるさまは、全員経営を表現している。

おぐら まさおが受け継いだ思い。

康臣が社訓にこめた思いは、おぐら まさおにも受け継がれた。特に、ヤマトは我なり、という言葉を、社員全員が第一線の選手であり、補欠ではないとも解釈し、全員経営に結びつけた。自分は何をすべきかを自分で決め、自分で動く。お客さまが何を求めているかを自分で考え、自分で解決する。課題解決のために、ひとりひとりが自ら考え行動することを、全員経営と表したのだ。その全員経営を社内に根付かせるため、コミュニケーションが重視された。会社としては、どのような目標を達成したいのかを、文字や声で繰り返し社員に伝えた。

全員経営を実践するのは社員だ。特にたっきゅうびんでは SD の存在が不可欠だった。商業貨物は、営業をする人と運ぶ人が別だったが、たっきゅうびんはそうではない。どこから荷物が出そうか、いくつぐらいありそうかは、各地域を回っている SD だからこそわかるからだ。その SD に求めるものを、昌男は次のように表現した。ひとつは、デパートの食堂で働く人々のように、注文を取り次ぐ人、料理を作る人、運ぶ人といった、分業制で仕事を進めるのではなく、ひとりでなんでもこなす寿司屋の職人のように、お客さまのひとつひとつの要望に応えてほしい。ひとつは、サッカーチームのフォワードの選手になってほしい。フォワードには、メンバー全体との緊密な連携プレーだけでなく、シュートするか、パスするか、自らとっさに判断することが必要だ。昌男は SD に優秀なフォワードになることを求めた。

企業理念にこめたこと。

全員経営、さらには、サービスが先、利益はあと、という考え方は、社員に広まりつつあったが、そうした思いが明文化されるまでには少し時間を要した。転機になったのは1991年、平成3年、日本経済団体連合会が企業行動憲章を策定したことだ。このころから、企業には存在価値や、役割を明文化することが求められるようになり、ヤマト運輸も社訓に、経営理念、企業姿勢、社員行動指針を加えた、企業理念を制定することになった。

経営理念の文言を決める過程で、昌男はたっきゅうびんに、社会的インフラとしての、という言葉をいれるかどうか、最後まで迷っていた。「おこがましいかな」と自問自答しながら悩む様子が印象的だったと、当時の策定プロジェクトメンバーのヤマウチ雅喜は振り返る。そうなりたいという熱意と、そうなるからには重い責任を負うのだという覚悟がいり交じっていた。

かくしてヤマト運輸企業理念は、1995年に制定され、各店ショにパネルとして掲示されたほか、全社員に小冊子として配布された。冊子の冒頭で、当時の宮内こうじ社長は、「社員のみなさんが、同じ認識をもって目標へ向かうときの指針であり、同時に社会に対しての宣誓である」と記した。この企業理念は、2005年に、環境や、個人情報の保護などに言及するために改訂され、そして、現在はヤマト グループ全体で共有されている。昌男は、一度決めたルールは何がなんでも守りとおすべきだとは考えていなかった。たとえば休みの取りかたなどは、社会が変われば変わるのが当然だ。しかし、絶対に変えてはならないものもある。それは全員経営に代表される社訓にこめられた思いだ。

ヤマト運輸五十年史に掲載された、社訓。1971年。

桜に Y の社章のデザイン。

おぐら まさおが使用していた社章。

営業所での朝礼の様子。岡山南営業所、1987年。

配達前に、届け先を地図で確認する SD 。倉敷営業所、1983年。

社訓の制定に伴い、康臣は1932年2月に、訓示と社歌を録音したレコードを制作し、希望者へ配布した。ちなみに、社歌は1929年10月に制定。社歌の歌詞は社内募集され、康臣が代表を務めた富士屋タクシーの従業員の弟で、早稲田大学の学生、古藤義雄の作品が選ばれた。作曲者の姓名は定かではない。

水道、電気、ガス、たっきゅうびん、のコピーでたっきゅうびんも365日、便利をお届けしたいとした、正月新聞広告。1997年。

ヤマト運輸企業理念冊子。1995年。

宮内宏二、ヤマト運輸社長。1995年。

2、全員経営の実践。

社員に息づく精神。

たっきゅうびんのサービス開始直後から、名実ともにヤマト運輸の顔となった SD 。その礎となったのは、たっきゅうびん以前の運転手がもっていた誇りと責任感である。創業のころ、自動車を運転する仕事は多くの人の憧れであったが、康臣は運転ができるだけの人物を運転手とは見なさなかった。自動車の整備や、荷物の扱いについても、いちにんまえになるまで、助手として、荷あつかい、その他を習得させるなどの修業を積ませたのだ。当時のトラック業界では類を見ない制服制帽を導入し、会社の看板を背負っていることを運転手に自覚させもした。それから時代が移り変わり、昌男は SD に裁量を与えた。当時のことにはなるが、取扱店がどこに必要か判断し、契約する権利、新規荷主を開拓する権利だ。荷物事故が発生したら、 SD のその場の判断で処理できるようにもした。

そうして育まれた、自ら考え行動する精神は、緊急時にも遺憾なく発揮された。1994年、平成6年3月のことだ。山梨県内の山間の小学校に、網走から流氷が送られた。授業に間に合うように手配されていたが、不測の事態が起こる。ストライキでフェリーが欠航するかもしれないという。深夜、山梨ベースで問い合わせの電話を受けた社員は行方を案じて、流氷の居場所を探して各方面に電話をしたところ、フェリーのストが回避され、流氷が西東京ベースに到着したのを確認。さらに午前4時、山梨ベースに到着したのを確認すると、一刻も早く届けようと車に積み込んだ。小学校は、山梨ベースからかなり離れていたが、流氷は奮闘のかいあって、無事、授業に間に合った。

社風をじょうせいする取り組み。

社員同士のコミュニケーションを円滑にし、社風を醸成するために、さまざまな施策が採られてきた。月刊の社内報、ヤマトニュースは1930年、昭和5年に発刊されている。その目的は、上意下達と下意上達、そして全員が堅苦しくなく意見を述べ、啓発し合う場となるということ。知らない土地の、会ったこともない従業員の活躍が掲載されれば、それは大きな刺激になった。

社訓の唱和は朝礼で毎日おこなわれている。全員で唱和し、共有することで、とっさの判断に迫られたとき、社訓の精神がまさに生存本能のようによみがえってくる。

比較的新しい取り組みの一つが、2008年、平成20年からの、満足創造 3か年計画の中で始まった、満足ポイント制度だ。これは、社員が社員を褒めると、褒められた人と褒めた人の両方にポイントが付与され、ポイントに応じて満足バッジが授与されるというもの。褒めることで良い循環が生まれることを期待してスタートし、リニューアルを経て、満足 Bank としてグループ各社にも広がった。

制服姿の運転手。1927年。

現存する最も古い、ヤマトニュース。1941年3月発行。

ヤマトニュースは、戦時中に労報ヤマト と改称。写真は1945年4月号の労報ヤマト と、1945年1月号に掲載された、戦友だより。

満足バンクのポイントに応じて贈呈される満足バッジ。

3、お客さまの意思を受け継ぐ。

おぐら やすおみ、おぐら まさおの信念。

社訓のひとつとして掲げられている、運送行為は委託者の意思の延長と知るべし。康臣は後年、これは百貨店配送を請け負うなかで生まれてきた考え方だ、と回顧している。自宅で荷物を受け取る買い物客には、ヤマト運輸は百貨店の最終窓口に見える。したがって、自分たちは百貨店の一員となりきって、買い物客に接するべきだと考え、そう従業員に伝えてきた。運ぶものが嫁入り道具なら、それにふさわしく運ぶべきだとも説いた。

昌男も常に、荷物を受け取る人のことを考えていた。たっきゅうびんが大きく成長し、世に認められたあとの、創業70周年記念行事のパーティーの冒頭で、昌男は、これまでもらったどんな賞よりも、「約束の日に荷物が着かなかった」という1枚のクレーム ハガキのほうが重いことを認識してほしいと語った。

徹底的に顧客の立場に立つその姿勢は、1981年、昭和56年を初年度とする、ダントツ3ヵ年計画などにも色濃く反映されてきた。

お客さまの立場に立った対応。

お客さまの立場に立つ。これは言うは易く、おこなうは難しいものでもある。しかし実際に、信念は行動に移された。1984年12月。新潟県長岡市は記録的な豪雪に見舞われた。その長岡の支店が、前年にサービスが始まったスキーたっきゅうびんの拠点の一つになっていたが、大雪のため、長野、新潟県内のスキー場への配達が滞ってしまった。至急、全国から応援の社員を集めたものの、自然には勝てない。そこで、昌男は決断する。スキーを預けてくださったお客さまと連絡を取り、スキーのレンタル代はもちろん、購入したスキーウェアなどの代金もすべて支払い、お詫びをしたのだ。

翌年、お客さまが利用してくれるだろうか、という不安は取り越し苦労となった。ヤマト運輸はそこまでやってくれる会社だというイメージが浸透していたのだ。昌男は、社員の迅速な、サービスが先、利益はあと、を体現するような努力が信用を得たこと、その大切さを社員が実感したことを嬉しく、頼もしく感じていた。

おぐら やすおみが、運送行為は委託者の意思の延長と知るべし、の意味について触れた、日本工業新聞連載記事。1964年5月25日。

スキー場での出来事を報道したサンケイ新聞。1985年1月5日。

大雪の翌年に導入されたキャタピラー仕様の雪上しゃ。1985年。

4、思想を堅実に礼節を重んじる。

人間としての最も大事な道。

1942年、昭和17年1月1日付けのヤマトニュースには、康臣の挨拶とともに、本年の標語として、礼節第一、の文字が記されている。「礼節を守るべきことは、誰でも知り切ったことであります」とし、「人間として最も大事な道であればこそ、じょうじゅうざが、座っているときも横になっているときも、わするることなく守っていただくために、社訓として特に掲げたのであります」と、社訓に触れて自説を述べている。

これは、戦争が終わっても変わらなかった。1945年9月に総務部長名義で発行された、労報ヤマト (戦時中と戦後一時期の ヤマトニュースの名称) の最初の見出しは、服装を端正に、だ。本文は、戦災者でもある従業員に配慮しながらも、「粗末は粗末ながら、その服装を端正にすることは、各自の心がけによってなし得ることである」と綴られており、いかなるときも社訓という原点に立ち返ろうという気概が読み取れる。その社訓のもとで働く従業員は、自ずと礼節を重視するようになっていた。

社員が実践したこと。

1984年3月、病院の玄関で靴を脱いだ来院者の前に、「どうぞ」という声とともにスリッパが置かれた。置いたのは来院者の知り合いでも、病院のスタッフでもなく、たまたまそこへ荷物を届けに来ていたヤマト運輸の SD だった。来院者はその行為に感銘を受け、手紙を書いたため、昌男の知るところとなった。

また、2005年、平成17年、当時のヤマト運輸社長、山崎篤のところへ、お客さまから一通のメールが届いた。センターを訪ねたお客さまを、「いらっしゃいませ」と車まで出迎え、荷物を預かったあとは、「ありがとうございました」と道路まで誘導した社員に対して、「自然な挨拶と笑顔」だった、と感謝の言葉が綴られていた。こうして社員の礼節が褒められたことに対して、山崎は嬉しく誇りに思った。

コンプライアンスへの取り組み。

思想を堅実にしていく組織的な取り組みのひとつとして始まったのが、2003年に立ち上がったコンプライアンス委員会だ。内部通報制度を整備するなど、社内のリスク情報を経営陣が直接把握できるようにした。2014年、ヒューマン エラーによる無資格や、無免許での運転を防止するため、目視確認に加えて、 IC カード免許証を使う管理システムも導入した。現在も、コンプライアンス経営の確立を重要課題として、取り組みを進めている。

礼節第一、を掲げた、ヤマトニュース。1942年1月号。

山崎篤、ヤマト運輸社長。2005年。

5、身なりを整え、車両も美しく。

受け継がれる精神。

康臣は、礼節を重んじるのと同様に、車両を美しく仕立てること、身なりを整えることにも重きを置いていた。第1章でも触れたが、大正後期に、付加価値の高い運送を実現するため、運転手の外見や言葉遣いを洗練させ、宮家や上流家庭の婚礼荷を扱った。さらに、前述のように、運転手に制服制帽を身につけさせた。斬新かつスマートなその姿は、世間の注目を集めるとともに、運転手のやる気も引き出した。康臣の外見へのこだわりは、たっきゅうびんの時代にも受け継がれ、 SD の間に浸透していった。1976年、昭和51年の ヤマトニュースに掲載された SD による座談会では、車の清掃や、整理がテーマになっている。そこには、「心の乱れなどが車に表れると思いますね」、「服装と同じで、車は運転する人の心の表れではないでしょうか。車をきれいにすることは、サービスの基礎であり、仕上げではないでしょうか」といった発言が残されている。

制服もお客さまの視点を重視して。

その認識は、時を経ても変わることがない。ヤマトの制服は、その姿が顧客の目にどう映るかを十分に意識して、節目ごとにリニューアルされてきた。たとえば1969年には、車のカラーリングと調和をはかり、お客さまが一目で、ヤマト運輸の従業員と認識できるようにした。袖にネコのマークがあしらわれるようになったのはこのときだ。2000年、平成12年には、男女、同じデザインを採用し、お客さまへのサービス提供の統一感、連帯感をもたせている。機能性や、夜間作業時の安全性、環境にも配慮したものとなった。

路線便、たっきゅうびんの制服の変遷。1924年から2019年。
1924年、大正13年。おぐら やすおみは、運転手の応対や服装は会社の信用を左右すると考え、トラック業界では、類のない制服制度を採用した。当時としては、非常に斬新なスタイルで、そのスマートさは世間の注目を集めた。写真左は1979年に撮影。
1955年、昭和30年。ヤマトビンをはじめとした運転手の制服を制定。
1969年、昭和44年。創業50周年を記念してリニューアル。上着とズボンの色と車両のツートン カラーを対応させた。たっきゅうびんスタート時はこの制服だった。そのご、ズボンの改定を実施。
1977年、昭和52年。女性作業制服 ( SD 用)が登場。清潔感と、動きやすさを両立。写真は冬服のレプリカ。2019年に撮影。
1990年、平成2年。創業70周年を記念してリニューアル。男女でデザインを変え、女性事務制服にはニット ベスト ジャケットを採用。
2000年、平成12年。現在の制服は創業80周年を記念してリニューアルしたもの。男女のデザインを揃えた。右はアジア地域の制服で、帽子の色が異なる。

6、公平、公正を貫く信念。

クロネコ メール便と信書問題。

ヤマト グループの歴史を語るとき、避けて、とおれないのが、企業姿勢に掲げられた、法の遵守と公正な行動にかかわる、クロネコ メール便、以下、メール便をめぐる物語だ。

メール便とは、カタログやパンフレット、雑誌などを、宛先の郵便受け等に投函する商品だ。発売時の1997年、平成9年の価格は、3辺、計70センチメートル、厚さ2センチメートルまでなら300グラム以内、160円、600グラム以内、210円という安さだった。1994年に郵便料金が値上げされていたこともあり、多くのお客さまの支持を得た。

しかし、信書、つまり、特定の受取人に対し、差出人の意思を表示し、また、事実を通知する文書は、事実上、郵便でしか送れないという法律があった。メール便の対象はカタログなど非信書に限っていたが、実際の信書と非信書との境界はわかりにくいものだった。

ヤマト運輸は、お客さまが誤って信書を送ってしまわないよう注意しながらメール便のサービスを続けるかたわら、何が信書なのか明確にしようと試み、公正取り引き委員会へ申告したのだ。その結果、郵便事業への民間企業参入を検討する研究会が立ち上げられた。

ところが、そこで出された結論は、非現実的な条件の信書便法の制定だった。ヤマト運輸はそれに猛反発し、メール便のリニューアルを敢行し、それまでよりも小さなサイズも扱い始めた。

日本郵政公社と裁判で争いながら、新商品を投入するなど、メール便のサービス拡充に務めたが、一審、二審の結果を不服としたヤマト運輸の上告を最高裁判所は棄却。信書の定義が改まることなく、すでに民営化されていた同公社に軍配が上がることになった。

メール便の取扱量がピークを迎えるのは、この棄却のあとのことだ。しかし、お客さまが誤って信書を荷物にいれたために書類送検され、被疑者になってしまうケースも出てきたため、発送する際に信書ではない内容物であるという確認の署名をお客さまにしていただくなど、工夫を重ねた。

ほかにも信書と非信書の区別を、荷物の中身ではなく、大きさで誰にでも判断できる外形基準を導入するように、総務省、郵政政策部会で提案するなど、打てる手は打った。しかし、根本的な解決がはかれない状態が続いたため、2015年、お客さまにリスクを負わせるのは、自社の企業姿勢と、社会的責任に反するものだとして、メール便の廃止を決めた。

その年の11月12日、ヤマト運輸は全国の新聞に意見広告を出した。そこには、「公平、公正な競争が、お客さまにとって、さらに便利なサービスを生み出し、経済全体のプラスになると信じています」という一節がある。その思いは今もなお変わっていない。

信書便法案に対して開いた緊急会見。会見中、信書 とは何かを問う、ありとみ けいじ、ヤマト運輸社長。2002年。

全国の新聞に掲載された、いい競争で、いいサービスを、の意見広告。2015年11月12日。

クロネコメール便と信書問題。

大まかな流れ。

  1. 利用者の拡大。
  2. 郵便法違反容疑で、お客さまにもご迷惑をおかけするケースが発生。
  3. 出荷に際し、お客さまに、信書がはいっていないことを確認していただくと同時に、署名をしていただく。
国、郵政。
1947年制定郵便法では、国のみが信書を配達する。
クロネコメール便。
お客さまからのご要望で、投函サービス開始。
信書問題。
行政からヤマト運輸に対して、信書の取り扱いをめぐり、たびたび指摘がはいる。
クロネコメール便。
クロネコメール便発売。投函サービスの商品化。カタログやパンフレットなどの非信書を、荷物の外装に記載された宛先の郵便受け等に投函するサービス。
信書問題。
信書の取り扱いをめぐり、郵政省を公正取り引き委員会に告発。信書概念そのものを撤廃すべき。
クロネコメール便。
配達完了情報提供開始。
クロネコメール便。
クロネコメール便、サイズ拡大、1キログラムまで。
信書問題。
信書便法案の許可業者にはならず、独自にお客さまの利便性向上をめざすと発表。信書便法案は郵便と同じビジネスモデルの強制。
国、郵政。
信書便法案、国会に提出。参入にはポスト10万本の設置が必要。
クロネコメール便。
クロネコメール便、リニューアル。翌日配達、追跡システム高度化、大きさではなく、重さで決まる小さいサイズの新設、50グラム以内、100グラム以内。
国、郵政。
許可あれば参入可能とする信書便法が施行。
クロネコメール便。
お客さまからのご要望で、個人のお客さまの取り扱い開始。
信書問題。
郵政優遇措置 (納税免除、道路交通法関連免除、独占領域の存在等) の問題を提訴。日本郵政公社は独占事業であげた利益で民間事業者と同じ領域で競争しようとしている。
クロネコメール便。
クロネコ国際メール便発売。
クロネコメール便。
クロネコメール便リニューアル。速達サービス発売。
クロネコメール便。
法人向け新商品シートメール発売。
信書問題。
郵政の行為は不公正な取り引きにあたらない、との判決を受けて控訴。
国、郵政。
郵政民営化。
クロネコメール便。
クロネコメール便コレクト発売。
信書問題。
控訴棄却のため、最高裁判所へ上告。
クロネコメール便。
特定受取人ばらい、発売。着払い。
クロネコメール便。
クロネコダイアログ発売。宛名なしメール。
信書問題。
最高裁判所の上告棄却により郵政裁判終結。
クロネコメール便。
2010年度に取扱量ピークに。23億938万冊。
信書問題。
総務省、郵政政策部会にて、外形基準導入による信書規制改革を主張。信書か非信書かの線引きを明確に。基準を誰もがわかりやすい大きさや重さにすべき。
クロネコメール便。
信書荷受を厳格化、クロネコメール便出荷票変更。
クロネコメール便。
A4サイズへ一本化。
信書問題。
外形基準導入による改革案は受けいれられず。
クロネコメール便。
クロネコメール便廃止検討。
クロネコメール便。
クロネコメール便廃止。お客さまが、法律違反の認識のないまま信書を送ってしまい、郵便法違反容疑に問われるリスクを防ぐため。
信書問題。
全国の新聞54紙に、いい競争で、いいサービスを、の意見広告を掲載。公平、公正な競争、イコール フッティングが、お客さまにとってさらに便利なサービスを生み出し、経済全体のプラスになると信じている。
クロネコメール便。
クロネコ DM 便発売。たっきゅうびんコンパクト発売。ネコポス発売。

親子ネコの物語。ネコ マーク デザインのヒントになった、一枚の画用紙。

ネコ マーク誕生のきっかけは、康臣が1957年、昭和32年に、アメリカのアライド ヴァン ラインズ社と提携したことだった。同社のマークは親子のネコ。そこに込められた、careful handling に共感した康臣は、図案使用の許諾を得た。それを、いかにして、ヤマト運輸の親子ネコに仕立てるか。デザインしたのは広報で宣伝やヤマトニュースの編集を担当していた、清水たけしだった。清水は斉藤砂上の俳号をもつ俳人でもあった。

清水は、1938年にヤマト運輸に入社するも、一旦、退社し、闘病を経て1956年に再入社していた。その清水の家は東京 台東区 谷中にあった。当時、清水家では、その名もクロというクロネコを飼っていた。まだ幼かった清水の娘はそのクロを画用紙にクレヨンで描いた。とがった耳はのちのクロネコのマークにそっくりで、親ネコのそばには二匹の子ネコがいる。マーク完成後も、清水は会社の引き出しに大切にしまい、この絵がネコ マークの原案とされてきた。ところが2016年、平成28年、その裏面にもネコが描かれていることがわかった。そこにも親ネコ、そして子ネコが描かれているが、表面とは子ネコの位置が違う。子ネコは親ネコの口元にあって、こちらのほうが、ネコ マークにより似ているように見える。また、完成当時のネコ マークに添えられた、まかせてあんしん、というキャッチフレーズも清水によるもの。ネコマークとともに、広く知られることになった。そのご、ネコ マークが有名になりすぎて、同業者がこのマークを無断使用し、特許出願するという事態にも発展。新聞紙上などをにぎわせたが、万事解決に至った。社内でもこのネコ マークはなくてはならないものとなった。昌男もその精神を大切にしてきたが、ヤマトニュース、1978年、昭和53年1月号での、和泉雅子さんとの対談で、ネコ自体は、「それほど好きというわけでもないんです」と告白するエピソードが語られている。

1991年、平成3年には、イラストレーターの堀口忠彦さんによるシロネコ、クロネコのキャラクターも誕生した。

おぐら やすおみが共感したアメリカのアライド ヴァン ラインズ社で使用されていたネコマーク。左はジェームズ カミンズ氏が社長を務めていたマーケット ストリート ヴァン アンド ストレージ社のマーク。右は1948年にアライド ヴァン ラインズ社 (カミンズ副社長) がマーケット社から、マークの使用権を得て、デザインを変えて登録したもの。

ネコマークの生みの親、清水たけし。1963年。

清水たけしが撮影した、ヤマトニュースの表紙。1967年1月号。こだわりと熱意をもって仕事をしていた。

原案として知られていた、画用紙の表側の絵。

画用紙の裏側に描かれていたネコの絵。口元には子猫が描かれている。

完成当時の、まかせてあんしん、のキャッチ フレーズがはいったネコ マーク。

1991年から登場したシロネコ、クロネコのポスター。

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